聖霊降臨後第18主日

今が悔い改めの時
(ルカによる福音書16章19-31節
2007年9月30日





わたしたちの父なる神と、主イエスキリストから、恵みと平安とが私たちにありますように。アーメン

わたしたちの周りには、不公平や未解決の問題がたくさんあります。特に今、働いても生活が苦しい、ワーキングプアという言葉がある一方、豊かな人はどんどん豊かになるということもあります。今日の聖書のたとえにも、そんな二人が出てきます。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

遊び暮らしていても豊かな金持ちと病気で貧しいラザロ、これは今の世界と同じ様子です。ところがこの二人が、地上での命を終えたとき、全く逆転してしまいます。

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

そこで、金持ちはアブラハムに、ラザロを遣わして助けてくださいと言います。ところがアブラハムの答えはこういうものでした。

『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』

これは驚くべき逆転でした。なぜなら当時、お金があって成功しているということこそ、神様の祝福と恵みのしるしと考えられていたからです。神を信じるから仕事がうまくいく、家族は健康であると考えられていました。逆に、病気や貧しさなどは、何か罪を犯した結果、神の怒りを招いているからだ、と考えられていました。ところが実際、天国の救いに入れられたのはラザロであり、陰府に行ったのは金持ちでした。神様の祝福や救いのしるしとは、この世の富や成功ではないということです。ラザロは罪を犯して神様に見捨てられていたから貧しかったのではなく、金持ちは信仰深かったから豊かであった、というのではありません。

むしろここで、イエス様がわざわざこの貧しい人にラザロという名前をつけられていることに注目したいのです。たとえ話に出てくる人の中で、名前が付いているのは聖書の中でこのラザロだけです。そして、ここにこのたとえの意味があります。ラザロというのは、「神はわが助け」「神は救ってくださる」という意味です。この地上で、病気を背負い、身寄りもなく路上で生活していたラザロが頼ることができたのは、神だけでした。ここで、ラザロが善人であったなどとは一切書かれていません。ただ、神様が憐れんでくださったから天に迎え入れられた、ということが大切なことです。

そこで、金持ちは言います。

『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

これは悔い改めの言葉です。そして、せめて今まだ地上を生きている兄弟たちには、生きているうちに神を信じる機会を与えてください、と頼みます。しかし、アブラハムの答えは、あなたの兄弟にはモーセと預言者、つまり聖書の教えがあるではないか、その教えを学ぶがよい、という厳しいものでした。これに対し金持ちは言います。

『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

このたとえ話の中で、私たちはどこにいるかというと、金持ちでもないしラザロでもありません。まだ地上にいる、5人の兄弟です。つまりイエス様はこのたとえを通して、地上を生きている今、聖書に耳を傾けよ、と私たちを招いてくださっています。死者の中から生き返る者とは、まさにイエス様を表しています。私たちが、復活されたイエス様の話を聞いている、今この場こそ私たちに与えられた悔い改めの時です。

かつて、地上にいるときには、金持ちとラザロとの間にはこれほど深い淵はありませんでした。あったのは無関心です。金持ちはいつでもラザロのもとに来ることができたはずでした。しかし、今はもう深い淵があって、超えることができません。私たちには、地上を生きている今すでに、死者の中からよみがえられたイエス様がいてくださいます。それなのに、どうして耳を傾けないのか、という聖書の言葉です。

そして、私たちが聖書に耳を傾ける時、聖書はイエス様について示しています。実はイエス様こそ、このラザロのように歩まれた方でした。イエス・キリストは神でありながら、貧しい姿で家畜小屋で生まれました。そして十字架にかけられ、犯罪者として処刑されます。人々はイエス様が神から見捨てられたかのように思います。「お前が本当に神の子なら、神に救ってもらえ、今すぐ十字架から降りてみろ。そうしたら信じてやろう」と叫びます。今も当時も、人々が求めるのは十字架から降りることのできる神です。この世の成功をもたらす神です。しかし神の子であるイエス様は十字架の上で言います。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは、生きているときのこのラザロ、そして苦しみのうちにあるすべての人の叫びをそのまま背負われた姿でした。

しかし、神はイエス様を見捨ててはおられませんでした。イエス様を死者の中から復活させられ、イエス様は栄光のうちに高く天に挙げられました。それは、ここにいる私たちすべての罪を代わりに背負ってくださり、私たちをラザロのように天に迎えるためです。私たちに、この地上の目に見える世界だけでなく、永遠の救いを示すためです。今私たちの目の前には、イエス様の十字架の救いが示されています。これまでどんな歩みをなしてきたか、あるいは豊かかどうかなどは一切問われていません。今、死者の中から復活されたイエス様の救いの前に、悔い改めてひざまずくように招かれています。イエス様が十字架に架けられたとき、一緒に十字架に架けられた強盗は言いました。

「主よ、御国においでになるときには、わたしのことを思い出してください。」

彼は強盗です。死刑囚です。自分に罪があることを十分知っています。そして、とても救われるようなものではないことも知っています。しかし、イエス様にすがるのです。まさにラザロ、神はわたしの救い、です。そのときイエス様は、

「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

と約束してくださいました。同じように、イエス様を信じるとき、私たちがこの金持ちのように陰府でさいなまれることは決してありません。イエス様こそが、罪人である私たちと神様との間にある、どうしても越えられない深い淵を埋めてくださったお方だからです。イエス様は今日、このたとえを通して、ここにいるすべての人を御国に招いてくださっています。私たちがこの世の目に見える世界だけを見るのではなく、永遠の神の国を目指して生きるように示してくださっています。

実はここで、金持ちがはるかかなたに見ているラザロこそ、生前に彼が決して見ることなく、目をそむけていた姿でした。金持ちは毎日、すべてが自分の思い通りに暮らしていました。そしてそれは、私たちが思い描く地上での幸せの姿かもしれません。けれども私たちには、むしろ思いどおりにならないことのほうが多いのです。試練にあい、悲しみにあう。そういうラザロの部分は、誰もがなりたくないし認めたくない姿です。けれども聖書は、そんなときにこそ神様の救いはあるのだと示すのです。自分の思うようにならない生活の中で、神という本当に頼ることのできる御方がいてくださいます。死を通して、この金持ちは、生前には彼にとって全く不必要であったかのように思えた、神とともに歩むことがどれほど幸いであるかを示されたのです。

私たちは、ラザロのように試練にあうこともあります。けれどもその苦しみは、決して神様が見捨てられたのでも、過去の罪の結果でもありません。むしろ、神様の救いがここからはじまるのです。私たちには、地上で終わるのではない永遠の救いが約束されています。目に見えるこの世のことだけではなく、地上を生きている今こそ、聖書に耳を傾けること。イエス様の救いが与えられていることを信じ、信仰をもって歩むこと。これこそが、神様が招いてくださっている祝福への道です。この一週間、聖書に耳を傾け、悔い改めとイエス様の救いへの感謝をもって歩みましょう。祝福をいたします。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。アーメン

 

 

 



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