聖霊降臨後第17主日

小さなことに忠実でなければ
(ルカによる福音書16章1-13節
2007年9月23日





わたしたちの父なる神と、主イエスキリストから、恵みと平安とが私たちにありますように。アーメン

信仰をもちつつ、この世の生活をするとはどういうことでしょうか。今朝、イエス様はたとえを通して私たちに語りかけてくださっています。

「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

主人から財産を任されていた管理人とは、神から預かった地上の命を生きている私たちを表しています。しかし、罪人である人間は、それを正しく管理することができません。そして、神から「会計の報告を出しなさい」と言われる、つまり裁きの時を迎えます。終わりの日というのは、いつ来るかはわかりません。突然やってきます。そのとき、罪人である私たちは必ず神の前に引き出されます。そしてそのとき、誰もが会計報告は合わないのです。裁きを逃れられる人は一人もいません。

突然、予告された迫り来る終わりのときを前にして、管理人は考えます。どうしたらいいか。裁きを逃れることはできません。言い訳も通用しません。それならば、と裁かれた後のことを考えはじめます。

そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」

そして、主人に負債がある人を赦すという手段に出ます。すると何と、主人はこの管理人の抜け目のないやり方をほめます。ここで、変化したのは主人のほうです。管理人は相変わらず不正なままです。罪人のままです。ところが主人のほうが、管理人を赦すのです。ここで損をしているのもこの主人です。勝手に自分に負債のある人を免除されたのですから、犠牲を払っているのは主人のほうです。それでも主人は彼をほめます。この変化はいったいどこから来るのでしょうか。

管理人が、近い将来に解雇されるのは明らかでした。ただ、まだ解雇されてはいません。時間が残されているうちに、彼は来るべき将来に向けて備え始めました。主人がほめたのは、この抜け目のない賢さです。具体的には2つあります。まず、自分が今どんな状況にあるか、という、今という時を見分けた賢さ、そして2つ目は、赦すという方法で仲間を作る賢さです。そしてイエス様は続けて、

この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子よりも賢くふるまっている

と、私たちに向けて賢くあるように言われています。では来るべき裁きに賢く備えるとは、具体的にどうしたらよいのでしょうか。イエス様は続けて言われます。

そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

この言葉は、思わず立ち止まってしまう箇所です。すぐには理解できません。不正にまみれた富とはどういうことでしょうか。このあとすぐに、

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。

と言われています。永遠の住まいという大きなことに対して、「ごく小さなこと」が不正にまみれた富といわれていますから、これはつまりこの地上での富ということができます。地上の富は、私たちの心を奪う力を持っています。罪にまみれた、ともいうことができます。富には、生きることのむずかしさ、問題が渦巻いています。そして、不平や不安、どうにもならない不満が渦巻いています。そして、地上での富がなくなったときとは、つまりこの世の生活が終わる時です。さらに、「不正」と「不忠実」とは実は同じ言葉です。ですからこの管理人は、不忠実だった管理人ということができます。何に対して不忠実なのかというと、本来の主人に対して不忠実だったのです。主人よりも、富に仕えてしまいました。逆に忠実であるとはどういうことかをイエス様は最後に言われています。

どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

忠実というのは、神様との関係です。今扱っている地上の富というのは、他人の物、つまり神様のものなのだということを知り、神様のために富を使うとき、そのことを忠実といいます。逆に、富を主人にしてしまうとき、そのことを不忠実、と言われています。

そしてイエス様は、地上の富とは「ごく小さなこと」と言われています。それに対して、大きなこととは神と裁きにかかわることです。やがて必ず来る、神の前に立つ日のことです。その日に向かって備えをすること、そのためには、ごく小さなことについても忠実でなければならない、と言われています。管理人は途中で気がついて、この大きなことに備えた、その賢さがほめられたのです。

ここでイエス様は、「本当に価値あるもの」、つまり御国について語っておられます。そしてこの言葉は、「弟子たちに言われた」とあるように、クリスチャンに向けて言われていることに注意したいのです。つまり、御国をすでに受けている人々に対してです。

不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。

確かに私たちは、すでに御国を受けています。しかしながら、今なおしばらくは、私たちは地上を歩んでいきます。今週行うこの世の働きに忠実であること。日々の生活に忠実に生きること。それが、地上で神に仕える、ということです。

そもそも、罪人である私たちは、この世の富以外に頼って地上の生活を送れるでしょうか。むしろ私たちは、救われたけれども同時にやはり罪人です。罪を犯さずに生きていけません。ここには、イエス様による私たちへの根本的な大きな赦しがあります。管理人を赦すために犠牲をこうむった、この主人の姿はイエス様の十字架に重なります。イエス様の十字架とは、どうしても罪人でしかない、会計報告を出しなさい、と言われてどうつじつまを合わせてもあわない、私たちを赦し、永遠の命を与えるためでした。イエス様は今日、このたとえによって、私たちを永遠の住まいに迎え入れられる日に備えるよう、招こうとしておられます。いつか、神様の御前に立つとき、私たちにはイエス様の十字架の赦しがあること。イエス様が、私たちが受けるべき裁きをすでに引き受けてくださったことを示そうとしておられます。

そして、この赦された不正な管理人こそ、わたしたちの姿です。普段の日常の中では、神を信じていてもそうでなくてもあまり変わりはないかもしれません。しかし、いざ終わりの日に目を向けさせられるような出来事や、試練にあったとき、ふと気がつくと自分は実は何も持っていないことに気づくのです。どうしようか。あれもできない。これも支えにはならない。今、持っているように見えているものはすべて他人のもの、つまり神様のものです。今は地上で、それをお預かりしています。やがて、永遠の御国に入れられるときまで、この地上では、任せられている神様のものを忠実に用いること。それが信仰だ、と言われています。私たちがこの世を生きるときには、将来のことや生活に不安を感じて敏感に対応し、厳しい中を生き抜いていきます。その同じぐらいの敏感さをもって、御国を求め、忠実であることが信仰です。そして、主人からの赦しによる以外に裁きを逃れられない私たちは、イエス様の赦しを信じて喜ぶのです。

私たちの主イエス様は、罪人を招くためにこの世に下ってきてくださいました。宗教的エリートが近づかなかった、お金が飛び交う収税所で、徴税人や罪人を招きます。収税所とは、それこそ不公平や不満が渦巻いている場所でした。その不正にまみれた富の中で、罪人の友となってくださったのは実はイエス様でした。この世のただ中で、イエス様は私たちを招いてくださいました。私たちは今日のイエス様の言葉通り、罪にまみれた中でイエス様に出会い、この友によって永遠の御国に迎え入れてもらったのです。私たちは、日常がうまくいっているときには、問題なく信仰生活を送れるかもしれません。けれども、試練にあったとき、不平や不満があるときに、「信仰というきれいごとでは、この世のただ中で生きていけない」と思う時が来るかもしれません。けれどもイエス様は、その中にいてくださいます。問題があり、罪にまみれ、どうすることもできないようなとき、イエス様とはそこにまで来てくださるお方です。小さなことに忠実に、とは、まさにそのようなとき、不正や富に仕えるのではなく、そこで出会ってくださるイエス様の声に聴き従うということです。

ですから私たちは、

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。

このイエス様の言葉を心に留め、今週を歩んでまいりましょう。永遠の御国を求めつつ、日々の働きを忠実に、イエス様の十字架を見上げて歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。アーメン

 

 



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