聖霊降臨後第11主日

神の前に豊かでないなら
(ルカによる福音書12章13-21節
2007年8月12日





わたしたちの父なる神と、主イエスキリストから、恵みと平安とが私たちにありますように。アーメン

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

イエス様は今朝、私たちにこう教えられています。確かに、お金がすべてではない、ということはそのとおりです。けれども、むしろ今は逆に「人の命は財産によってどうすることもできる」かのような時代になってしまっているのではないでしょうか。命までもが格差の中でもまれています。実際の生活がかかっています。だからこそ、私たちはさまざまなことに将来の不安を抱きます。先程お読みいたしました福音書に出てくるこの人は、遺産をめぐって家族が対立し、イエス様に助けを求めてやってきます。この人は現実に困って心を煩わせています。それは問題が切実だからです。悔しい思いをしたのかもしれません。彼は言います。

「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟にいってください。」

当時、ユダヤ教の教師たちは、生活の細かいところまで相談にのりました。子供達の教育や、夫婦の問題、近所とのトラブルなど、あらゆることに対して律法ではこうなっている、と教えていました。この人は、イエス様も同じように家族との間に入って解決してくれる、と考えます。けれどもイエス様の答えは全く違ったものでした。

「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」

とても冷たいように思えます。この人は失望したのではないでしょうか。私たちも、本当にいろんなことで心を煩わせるときがあります。そしてそのとき、必死に祈っても、突き帰されるかのようにすぐには祈りがきかれないときがあります。イエス様は、そんな私たちにひとつのたとえを話されます。

「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

このたとえを聞いて、この人のどこが問題だったのか、と思われませんか。この金持ちがしていることは、私たちが普段、普通に考えていることです。多くの収穫があったなら、大きな蔵を立てて将来に備えます。この先、もしかしたら不作が続くかもしれない、と備えをするのは当然です。しかし神は、

『愚かな者よ』

と言われています。いったいこの人のどこが愚かだったのでしょうか。

実は、ここにはもともと「私の」という言葉が入っています。「どうしよう。わたしの作物をしまっておく場所がない。」「こうしよう。わたしの蔵を壊して、もっと大きいのを立てるのだ。」「そこにわたしの穀物や財産をみなしまおう。」そして、「こうわたしの魂に言ってやるのだ。さあ、これから先何年もの貯えができたぞ」というようにです。これに対して神はこう言われます。

今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」

この人は、今持っているものはすべてわたしのもの、と考えていました。けれども実は、何より彼の命が神様の手の中にあるということに気付かなかったのです。私たちの命も、今もっている財産や、これから先の生活も、すべて造り主である神様のご計画にあります。私たちには、自分の命がいつ終わるのかを知ることはできません。それどころか、明日の生活がどうなっているのかすら、私たちにはわかりません。この人がイエス様に財産の問題を言い出す前に、この人は群衆の一人としてイエス様の話を聞いていました。そのときイエス様は何を話しておられたかというと、12章の4節以下です。

「体を殺しても、そののち、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。むしろ、殺した後で、地獄に投げ込む権威をもっている方を恐れなさい。雀の一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたはたくさんのスズメよりもはるかにまさっている。」

この金持ちが、「わたしの財産」「わたしの穀物」と言っていたのに対して、イエス様は人間の思いをはるかに超えた天の父なる神様へと私たちの目を向けさせます。

それでは、神の前に豊かになる、とはどういうことでしょうか。このあとイエス様は、続けてこのように話されます。

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。カラスのことを考えてみなさい。種もまかず、刈り入れもせず、納屋も蔵ももっていない。だが、神はカラスを養ってくださる。」

この人は、まさに自分の命、財産のことで思い悩んでいました。しかし、私たちの天の父は、限りなく豊かなお方です。私たちの髪の毛すら数えておられるそのお方を信頼すること。明日がどうなるかはわたしたちではなく、天の神のみ手の中にあります。ですから、第一にこの神を信じるとき、もう思い煩わなくてよいと言ってくださいます。カラスを養ってくださる神があなたがたも養ってくださる。だから、31

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの天の父は喜んで神の国をくださる。

こう約束してくださっています。これが神の前に豊かになるということです。そしてイエス様はこの人に、33節、あなたは

擦り切れることのない財布を造り、尽きることのない富を天に積みなさい。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

と言われます。

確かに私たちには、生活があります。イエス様は、貧しくなりなさい、と言われているわけではありません。しかし、イエス様に従う者にとっては、それは最終的なことではない、と言っておられます。私たちには、天の父なる神様がいてくださるからです。たとえ思いどおりにならないときも、このお方に祈ってお任せすることです。

イエス様のたとえの中で、神はこのように言われています。

今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』

私たちはどうでしょうか。神の前に本当に豊かでしょうか。今、私たちは、「今夜、お前の命は取り去られてもよいか?」と問われているのです。私たちキリスト者は、この地上では旅人です。本当の故郷は天にあります。イエス様とは私たちの裁判官や調停人ではなく、私たちに永遠の命を与えてくださるお方です。イエス様こそ、私たちのためにすべてを差し出して神に従い、十字架への道を歩まれました。十字架の上で命を与え、私たちを救ってくださいました。私たちにはこの永遠の命があります。行く先が定まっているからこそ、そこに至るまでの途中の歩みはすべて、神が備えてくださいます。だからこそ、将来のことを思い煩わなくてもよい、私たちの人生はもうすべて神の御手にあります。イエス様は今日、

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

この厳しい言葉をとおして、私たちに与えられた素晴らしい救い、神の国の永遠の命へと目を向けさせようとしておられます。

ですからここに集った私たちは、第一に神の国を求め、父なる神を信頼して歩むものでありたいのです。そのとき、地上を歩む私たちにすべてのものは与えられ、備えられていくという奇跡を体験していきたいのです。髪の毛一本すらご存じの神がいてくださいます。あなたがたの父は、あなたがたに必要なものはすべてご存じだ、とイエス様は言ってくださっています。神の前に豊かに富を積み、信仰の道を歩み続けてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。アーメン

 



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