聖霊降臨後第9主日
| 「必要なことはただひとつ」 |
| (ルカによる福音書10章38-42節) |
| 2007年7月29日 |
わたしたちの父なる神と、主イエスキリストから、恵みと平安とが私たちにありますように。アーメン
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」
これが、今朝私たちに語られたイエス様の言葉です。確かに私たちは、毎日多くのことに心を騒がせています。しかもその思い悩みは、決して無視することのできない、現実の生活の中でのことです。自分の力ではどうにもならないことだからこそ、どうしていいかわからなくなります。けれどもイエスさまは今日、「あなたに今必要なことはただ一つだけだ」と、道を指し示してくださいます。
先ほどお読みしました本日の福音書には、二人の姉妹が出てきます。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
当時のパレスチナで、女性が男性の足元に座って話を聞くということは決してないことでした。弟子たちがイエス様を囲んで教えを聞いている間、女性は奥で働いているのが普通でした。姉のマルタはそうして、イエス様をもてなす準備を忙しくしていました。その中で妹のマリアは、弟子たちに交じって男性のように座って話を聞いていたのです。そこでマルタは言います。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
マルタは客をもてなすために、とても大切な働きをしています。イエス様を自分の家に迎え入れたわけですから、イエス様を信じていないということではありません。むしろ、イエス様を信じて、愛しているからいろいろともてなします。けれどもそのとき、マルタの心は様々な思い煩いで乱れていました。彼女は、自分が働いているときに妹が座って話を聞いていることが許せないのです。自分はこんなに働いているのに、彼女は何もしていないと相手をさばいてしまいます。けれども、イエスさまはこう言われます。
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
このとき、マルタは決して間違ったことをしていたわけではありません。マルタは正しいことをしています。罪というのは恐ろしいものです。正しいことをしているときにも私たちは罪にとらわれることがあります。正しいことをする中で、どうして自分だけが、という思いがでてきます。自分を評価してほしい、という思いからどうしても解放されません。多くのことに思い悩み、心が乱される。そういう私たちの姿こそ、イエスさまが今日私たちを解放してくださろうとしていることです。
イエス様はかつて、有名な種まきのたとえの中でこんな話をされました。
ある人がまいた種が茨の中に落ち、茨が伸びてせっかく伸びた芽の上に押しかぶさってしまった。それは何をあらわすかというと、聖書の言葉を聞くけれども、途中で人生の思い煩いに覆いふさがれて、信仰の実が熟するに至らない人のことだ、と言われています。同じように私たちも、本当にさまざまなことに心を悩ませます。しかもそれは、決していらない心配ではなく、生きていく上での現実の悩みです。家族のこと、将来のこと。そのとき、突破口はどこにあるでしょうか。イエス様は、そのときあなたに必要なことはただ一つだけだ、と言われます。それこそがマリアが選んだ、神の言葉を聞くということです。神の言葉を聞くとは、つまり、この礼拝です。
イエス様は、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、すべてが与えられる、と言われました。さらにまた、人はパンだけで生きるのではない、神の言葉で生きるのだ、ともいわれています。礼拝に来て、イエス様の言葉を聞くこと、これこそ私たちに本当に必要なただ一つのことです。しかしながら、私たちは礼拝を第一のことにしているでしょうか。なかなか、ここにこそ道があるのだ、ということに気づきません。むしろもっと他にやることがある、と後回しにしがちです。
マルタの行動は、周りの人から高く評価されたかもしれません。忙しく働き、イエス様をもてなすことです。現代は、忙しいことが生きている証であるかのように、皆が忙しくしています。子供達までも忙しい。けれどもそこで、ひとつ足りないことがあります。神様の言葉を聞き逃してしまうならば、それは本当に乾ききった、魂のない生活になってしまいます。これに対し、マリアの行動は周りの人から非難されます。何もしていないように思えます。日曜日の朝、早く起きて礼拝にいって聖書の言葉を聞くことは、生きていく上でそんなに必要なことではない、と多くの人は思うかもしれません。けれどもマリアは、周りから批判をあびてもイエス様の言葉を聞こうとします。私たちが神様を求めるときには、何かを捨てて従うのです。私たちは、時間がありあまっているから礼拝に来るのではありません。礼拝にでも行こうか、ではありません。まず第一に礼拝に来るのです。そのとき、イエス様が私たちを縛っている思い煩いから解放してくださるからです。イエス様が十字架の上で流されたあの血潮は何のためか、まさに今私たちを縛っているさまざまなとらわれから解放して、思い煩う私たちを癒すためです。聖書の中で、さまざまな人がイエス様に出会って立ち上がっていったように、イエス様に出会うところからはじめて、私たちは自分の生活も立ち上がっていけるからです。
しかしながら、やはり心を乱してしまうのが私たちです。それは信仰のことだけじゃありません。現実の生活だからです。介護や家族のこと。教会はそこに何ができるでしょうか。実際に教会が何かしてくれたか?と言われることもあります。皆さんもそう思うことはありませんか。
けれども、逆に聖書は私たちにこういいます。私たちが礼拝に来るとき、イエス様は目の前にいてくださるのです。イエス様がここにいるのだから、もう私たちは思い煩わなくていいのです。私たちが礼拝に来るとはこういうことです。自分のいま抱えている問題を、すべてイエス様に差し出すためです。
先日、しばらく礼拝をお休みされていた方が、久しぶりに教会を訪ねてくださいました。家庭の事情でなかなか日曜日は毎週礼拝に来られない方です。もちろん、そういうときもあります。けれども、時間を見つけて平日にお訪ねくださいました。聖書の言葉を聞いて一緒に祈りました。そうすると本当に解放された顔になって、すっと胸のつかえが下りた、と涙を流して話してくださいました。家族のことで、いろいろがんばらなければ、といっぱいいっぱいになっていたけれど、そうだ、イエス様がいてくださる、新しい力がわいてきた、と帰って行かれました。皆さん、これが神の言葉の力です。
現代は皆が忙しい時代です。そんな中で、教会に来て、目に見えないイエス様を信じて生きている私たちも、決して有り余る時間の中から礼拝に来ているわけではありません。イエス様が、これがあなたに必要なただ一つのことだ、と言っておられるからです。このことを失ってしまえば、私たちはまた、イエス様を知らなかった時のように、まるでイエス様の復活などなかったかのように生きてしまいます。自分の正しさを主張し、人と比べ、人からの評価を気にして生きてしまいます。けれども、マルタがこのようにさまざまなことに思い煩っているときに、そのマルタを支えていたのは実はイエス様でした。イエス様はあの十字架の上で、このマルタをもしっかりと支えてくださっていました。それが、ここでイエス様に使われている「主」という言葉に表れています。これは特別なことです。十字架から復活されて今生きておられるイエス様に用いることばです。あの十字架で私たちの罪を背負い、今ここに生きておられるイエス様がマルタの目の前にいらっしゃいます。だからこそイエス様は、まだとらわれからから解放されていないマルタを、癒しへと招いておられます。
私たちが思い煩うすべてのことをイエス様はご存じです。だからこそ、わたしたちはまず第一にイエス様に会いに来るのです。イエス様に訴えます。思い悩みはたくさんあります。けれども、真中にイエス様という筋があったなら、揺れ動いても倒れることは決してありません。
礼拝するマリアをやめさせようとするマルタに対して、イエス様は「それを取り上げてはならない」と言われています。このように、私たちがこの教会にきて礼拝するとき、イエス様は私たちをいかなる力からも守ってくださいます。私たちの生活を阻もうとするもの、平和を乱そうとするもの。家族を壊そうとするもの。さまざまな力に立ち向かうのは、神の言葉です。かつてイエス様がサタンの誘惑に会われたとき、イエス様はどうされたでしょうか。お前が神の子だったら石をパンに変えてみよ、と誘惑されたとき、「人はパンだけで生きるのではない、神の言葉で生きる」と書いてある、と聖書の言葉を上げて対抗されました。私たちを守るのは、神の言葉です。この先どうなるだろうか、と心を乱す時こそ、私たちは本当に必要なただ一つのことに立ち返りたい。神の言葉を聴くことが第一です。礼拝を守り続けて、私たちがとらわれている思いわずらいをすべてイエス様に祈り、おゆだねいたしましょう。この礼拝にはイエス様がいてくださいます。このことを信頼して、祈りつづけてまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。アーメン